2015/06/30

幸運な死体 【再読】

幸運な死体 (ハヤカワ・ミステリ文庫 28-4)
クレイグ・ライス
早川書房
売り上げランキング: 325,563
■クレイグ・ライス 翻訳:小泉喜美子
本書は1945年に発表された"The Lucky Stiff"の邦訳で1982年刊。わたしが持っているのは2000年12月15日の9刷で杉田比呂美のイラストが素敵な新装版(現在は絶版)。
愛人である暗黒街のボス殺しの罪で死刑になる寸前、真犯人の自白で救われたアンナ・マリー。彼女は処刑されたことにして”幽霊”となって復讐を計画する…。

久しぶりに読んで展開をすっかり忘れていたがこれ、シリーズ中でもかなり出来がいい、面白いほうでは。
とにかくよく人が死ぬ話でしかも結構荒っぽい。よく周りの人を巻き添えにしないなって何度か思った。
マローンはアンナ・マリーの美貌にやられてしまって大丈夫かなあという感じ。寅さんと一緒で、幸せになれない宿命のキャラだもんで。
ヘレンとジェイクも活躍。天使のジョーも登場。マギーも元気で何より(わたしはマローンみたいなしっちゃかめっちゃかな、しばしば給料も滞るボスを相手にきちんと健気に働くマギーに敬意を持たざるを得ない)。

ドアの上の板をはずす隠し場所ってそんなに見つかりにくいものかなあ。板壁まで外して探す名人が見逃すかなあ。
ミステリーとしてどんでん返しもあるし、演出が派手だし、なにより悲劇のヒロインが中心なのでドラマチック。
電気椅子の数時間前に真犯人が自白して、とか冒頭からすごい。

それにしてもいくら新装開店のでも葬儀屋にあった花をプレゼントされるっていうのはぞっとしないなあ。まあ、知らぬが仏? アメリカではまた感覚が違うのかも知れないとも思ったけど、なんのために葬儀屋にいたのか尋ねられて女性に花を贈る為だと本当のことをマローンが云っているのに相手には冗談でごまかされたと受けとられているシーンがあり、そりゃあそうだよなあと。

2015/06/28

俳句という愉しみ ――句会の醍醐味 【再読】

俳句という愉しみ―句会の醍醐味 (岩波新書)
小林 恭二
岩波書店
売り上げランキング: 91,889
■小林恭二
1995年2月刊。これは2006年時点で絶版だったのであるが当時たまたま神田の古書店街に行く機会があり、岩波を専門に扱っている古書店の2階であっさり見つけたという我が本棚では珍しい存在。
日記で確かめたらこの時点では前段『俳句という遊び』の存在を後で知ったらしいので、順番は逆だったようだ。

1994年1月に行われた句会の収録。今回の舞台は青梅線「御岳」。御岳(御嶽)渓谷。「みたけ」と読んで、東京都内のほうである。2014年9月に噴火した御嶽山「おんたけさん」と字が同じだから一瞬あれ?って思ってしまった。東京のかたには馴染みのある場所のようですね。

参加者は、三橋敏雄、藤田湘子、有馬朗人、摂津幸彦、小澤實、岸本尚毅、紅一点で大木あまり、短歌界からの讃歌・岡井隆の8名に新書編集部の川上氏と小林恭二。
前回に引き続きのメンバーもいれば今回新たにの方も。そのへんのバランスにも気を配ったそうだ。
会場は2日とも同じ場所で、御岳渓谷の河鹿園という宿。対岸が川合玉堂の美術館になっているのも趣きがあって絶好の句会の場だったとのこと。

今回の本は小林氏の解説よりも句会でのやりとりがメインになっている感じでそれは面白かった。俳人の紹介が間々に入るスタイルは変わらず。
第1作は俳人もプロデュースするほうもなにがなんだかのうちに行われた感が強かったらしく、リベンジを望む声が俳人側からあったこと、また何より読者からの反響が「あまりに大きかったから」だそうだ。

短歌・俳句界の女流作家についての議論があったり、歌人による「俳句と短歌の違い」についての発言に応じてやりとりがあったりと面白いことになっている。
第1日目は「嘱目」。【嘱目とは目に触れたものを俳句にすることを言う。いわゆる写生というのを思いうかべていただければいい】んだそうで。
制限時間は1時間半で10句。全部で80句出揃ったところで句会に入り、短冊に写したあと清記などを経て選句10句という手順で進んでいく。この回の点数はみごとにばらけたとのことで、4点句が最高点句。

「幕間 御岳炉話」として女流の話や俳句の文学史的な流れの話があり、ひとくちに「俳句」と云っても時代や師によっていろいろだということ、特に戦時中の特高による弾圧、戦後のGHQの方針による影響、また俳句の世界は師弟関係がけっこう強いということなどが印象に残った。

2日目は題詠。
「舌」「猫」「日向ぼこ」「竹」「線」「時計」「雪」「土」「待つ」「寒」の10題。
選句は1題につき正選2逆選。

女性一人がいるといないとでこういう場の空気って変わると思う、女性ならではの発言とかあるなあと感じた。また、年代がばらばらなので、最初作った人は伏せて討論しているんだけど後でそれが大先輩の句だとわかるとさりげなくフォローしたり、自分の句だけどケナしたりしていて「実は」となったあとで「うまくトボけていたなあ」とかね。流派というか師匠筋によって季語のとらえ方とかが違ってそのへんの意見交換があったり勉強になる(句作をやるわけじゃないんだけど日本語、文学作品鑑賞としての関心はあるので)。ざっくばらんにみなさん話されていて、そのへんの臨場感が面白い。

選句が始まる前にまず読者も自分で正選、逆選を選んでみてね、と小林氏から提示があるのだがこの「選ぶ」のが結構難しい。俳句はまず「詠める」段階で結構力量を試されている気がする。



俳句という遊び ――句会の空間 【再読】

俳句という遊び―句会の空間 (岩波新書)
小林 恭二
岩波書店
売り上げランキング: 208,792
■小林恭二
俳句関係の本続けて。
これは小林恭二がプロデュースした2日間の句会のはじまりから終わりまでを記録した本。
1日目を読んでいるとき、句会で飛び交った会話中心ではなく、小林恭二の後からの解説が多いのがちょっとどうかなあと思わないでもなかった。せっかく俳人がこれだけ集まってるのにね。でも2日目は俳人のやりとりが多く記されているんだけどみんな意外なほど口数少ない感じで、なるほどこれだけじゃ「本」にはならないかと納得。
構成的に、参加した俳人の紹介が間々に入るのがどうかと思った。こういうのは最初にまとめてやってほしい。

句会は、1990年4月中旬に行われた。参加者は、
三橋敏雄、安井浩二、高橋睦郎、坪内稔典、田中裕明、岸本尚毅、小澤實、山梨県境川村の自宅を第1日目の会場とした飯田龍太で俳人計8名、そして黒衣(くろこ)の岩波新書編集部の川上隆志氏、プロデューサーとして小林恭二。

俳句とは関係ないところで、飯田邸で俳人たちをもてなすために奥さまが手料理をふるまわれるのだが、そのなかに鯉こくがあり、その鯉が【自宅で飼っている鯉を二週間前から網ですくって、盥で断食させ、しこうして、身をしめ、泥臭さを抜いた上で、ようやく調理するというたいへんなしろものであった。】というのがすごい。ほかも初堀りの筍、煮物、手作りのこんにゃく、豚肉を蒸したもの、などなどということで、たいへん手間がかかった心づくし。こんなの並べられたら恐縮だなあ。

句会であるが、1日目は10の題にそって各々が詠み、それぞれを清記したあと、この句会では1題につき2句ずつ選ぶ、それも「一番良いと思ったもの」を正選としプラス1点、「一番劣る」と思ったものを逆選としマイナス1点として計算するというルール。
題は、「春」「金(銭も可)」「枝」「種」「坂」「甲斐」「闇」「いか(烏賊も可)」「眼鏡」「まんじゅう」

2日目は太宰治の「富士には月見草がよく似合う」で有名な天下茶屋にて。
一人10句ということだったが飯田龍太が9句だったので全79句。これを各々良いと思ったものを8句ずつ選んで、というやり方。

とにかくこの二日間はたいへんな緊張感だったようで、【ある人は後になって、句会がおこなわれている二日の間「ほとんど発狂状態だった」とわたしに言われました。】などと「はじめに」に書いてある。

句会で詠まれた俳句のほかに、参加者の紹介の部分で自薦10句が載っているので俳句がたくさん読める本であると同時に、句会がどんな段取りで進みどんな雰囲気なのかも読むことができる面白い本である。よくわからない句も、良いなと思う句も、自分で選んでみてその後プロの型の選評を読んで我が意を得たり「そうかそうなのか」と教わったり。

小林恭二は今回はクロコに徹してひとつも詠まなかったけど、詠んでも面白かったんじゃないかなー。
1991年4月岩波新書刊。2005年11月にアンコール復刊したときに新刊書店で購入した。現在は絶版。


2015/06/27

他流試合 【再読】

他流試合―兜太・せいこうの新俳句鑑賞
金子 兜太 いとう せいこう
新潮社
売り上げランキング: 565,873
■金子兜太&いとうせいこう
2001年刊。前回読んだのはもっと最近かと思っていたのだが調べたら2005年で10年も前なのだった。わあ。
本書は「伊藤園新俳句大賞」の審査員をしていたいとうせいこうと2015年現在も審査員を続けている俳人の金子先生の対談形式の本で、同賞に寄せられた印象的な句、特徴的な句を具体例にしながら俳句について語り合うスタイルの本である。

最近又吉さんと堀本先生の同じように俳句について対談形式の本(『芸人と俳人』を読んだので続けて読み直してみたらあまりにも温度差があってクラクラしたので他の本を読んで数日開けてから毎日眠る前に少しずつ読んだ(中盤まではかなり真面目に読んだけど中盤くらいからダレて後半は正直流し読み)。
だってこのふたりの会話って持って回っているというか結論をいとうさんのほうが金子先生の顔色を読みながら探り探り喋っているんじゃないかと疑ってしまうくらい冗長なんだもの。

伊藤園新俳句大賞についてこの本には概要など載っていないのでインターネットのホームページを見てみたら第1回は平成元年だそうで、いま平成27年だから27回ということだ。ふーん。
第1回の一般の部の大賞は【白菜がまじめに笑って立春です】で、この本の最初はこの句についての解釈というのか評論というのか対談ではじまる。

又吉さんの本がすごく初心者向けの一般向けの内容だったんだな、ということがこの本を読んでいるとしみじみわかる、いやこれも専門家じゃないいとうさん相手にしている講釈だから先生としては随分噛み砕いてくださっているんだろうけどでも生徒がいとうせいこうっていうインテリで小説とか書いてる散文ではプロのひとだからね…。踏込がなかなかマニアックなのだ。
それでも読んでいくと又吉さんの本で堀本先生が挙げていたのと同じ俳句を基に金子先生が話されるところが2句もあり、そこはもう基本ってことなんだなと思ったり。
前回はアミニズムの説明が本文でちゃんと書いてあるのを読み飛ばしてしまっていて「アミニズムって何?」とか感想に書いてしまっていて、赤面。
金子先生は季語にそんなにこだわらなかったり、でも切れ字はやっぱり大事みたいだったり、そもそも俳句がいまみたいに「季語が無ければ」みたいなこと言われ出したのなんて俳句の歴史の中ではわりと最近だよみたいな話があったり、口語で俳句作ると川柳ぽくなるけどそもそも俳句と川柳の区別が非常にしにくくなってきているとか興味深く読んだ。あと、「新俳句」という「新」という言い方が実はもう全然ダメというか俳句やってるひとたちからは不評だったとかのくだりが面白かったなあ。「新」って言ってるけど全然新しくないよそれ、って感じだったみたい。

しかしこういう本を読んで俳句をやってみたいなと思っても実際問題全然浮かばない。浮かんでもお話にならないくらいヘタクソだということが作った瞬間に自分でわかってしまうレベル。あるいは川柳(しかも下手な)になっちゃう。
この本で例に挙げられているのはなんらかの賞の対象になった句がほとんどだから当然だけど変わってたり上手かったり、すごい。まあ、ちゃんと作りたいならもっと真剣にやらないとダメなんでしょうけどね。でも短歌と俳句だったら俳句のほうが自分には向いているような気がする、どっちの本も読むのが好きで、どっちかっていうと短歌の本の方がよく読んでいるんだけど、なんていうかあの感情を込める感じが向いていないかなあと。
金子先生の流派とぴったり合うとかいうわけでもないのでよくわからないところもあったけど、まあこういうふうに作品についてあれこれ話をするというそのこと自体が好きなので、まあまたいずれ中盤以降もちゃんと読まないとね。

2015/06/26

犬が星見た 【再々読】

犬が星見た―ロシア旅行 (中公文庫)
武田 百合子
中央公論新社
売り上げランキング: 20,048
■武田百合子
これは紙の本。キンドルでは電子書籍化されていない。
3回目の通読。
1969(昭和44)年に約1ヶ月かけて夫婦でロシアをめぐるツアーに参加したときのメモ書きをもとに執筆し、1979(昭和54)年に出版されたもの。
なお、百合子さんは1925年生まれ、夫の泰淳さんは1912年生まれなので、単純計算すると44歳と57歳のときの旅ということになる。
随分年の離れた夫婦だなあ。一回り以上違う。
読んでいて、夫君の妻への暴言の数々に「昔の旦那さんってこんなのが普通だったのかな」と驚きつつも「でも字面だけじゃわからんね、根底にお互いの信頼とかあるから平気なんだろうな、百合子さんも怒ってるふうじゃないし。」
読み終わってからふたりの年齢を調べてさらに納得。
泰淳さんのわがままぶり・お子様ぶりには「これは情が無ければとてもついていけないなあ」。でも全然ふつうのこととして描いてあるからふだんのほかの面とかで全部帳尻が合ってるのかもなあと。
夫婦のことはハタからみててもわかりませんね。

前もそう思ったんだろうけど今回好きだと思ったシーン。
朝のガラ空きの広場で百合子さんの背後で起こった交通事故、証言を求められて。
  〈ロシア語が話せない人間である〉ということと、〈私の背後で事故が起った。ドッカーンと音がしたので振り返ったのであるから、事故の起きる直前の車の状態は見ていない。だから証言は無理である。何しろ、ドッカーンと音がしたので振り返ったのであるから。〉ということを、私は婦人にわかってもらいたい。うしろ向きになって歩いたり、「ドッカーン」と発声して、はっと驚く仕草をしたり、心をつくし手をつくして、私が証人になれないということを説明する。結局、私は「ドッカーン」「ドッカーン」だけくり返して言っているばかりだ。

イイよなあ、よく考えるとユーモラスなんだけど、百合子さんご本人が至って真剣に大真面目にやっておられる、その気持ちで書いてあるのを読んでいるから読んでおかしく思ったりはしない、でもこの几帳面さ、異国で言葉が分からないということを全然卑下していない・卑屈になっていない、その純粋さがすんごく素晴らしいなあ、素敵なひとだなあと思う。

初読みの時の感想再読の時の感想

2015/06/21

プラナリア

プラナリア (文春文庫)
プラナリア (文春文庫)
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文藝春秋 (2012-09-20)
売り上げランキング: 8,530
kindle版
■山本文緒
本書は2000年10月単行本刊、2005年9月文庫化の電子書籍版。
2001年第124回直木賞受賞作品集。
収録作品:プラナリア / ネイキッド / どこかでないここ / 囚われ人のジレンマ / あいあるあした

「プラナリア」でネット検索すると茶色くて茸に似たナメクジのような生き物の写真が出てきて正視できずにあわてて小説のほうの検索に飛んだ。
本書の短篇5作に登場する主人公はみな違うひとだけど、「規則正しい生活をして仕事にやりがいがあって、私生活もエンジョイしている」みたいなのは一人もいない。共感しなかったし、どちらかというと関わり合いになりたくないタイプばかりだった。でもすごくリアルというか、順を追ってきちんとそのひとが表現されているというか、理解が出来ていくように書いてある。絵空事と感じない。だから余計に「あーこういうひと嫌!」「なんでこのひとは…」とか不愉快になったり眉間に皺が寄る感じで、しかも短編だからわりと途中で「ほいっ」って放り出される感じで「小説」としては区切られてしまうからついつい「このあとこのひとはどうすんのかな」とか考えてしまったりして、うーんウマいね~。山本文緒ってやっぱりそういう感じのを書くのが得意な作家さんなのかなー。

プラナリア
若いのに乳がんになってしまって、手術は成功して後は定期的に病院に通っている25歳の女の子が主人公。仕事をするでもなく何をするでもなくふらふらしていてたまに飲み会などに行くと「わたし乳がんで…」という話をしてまわりの空気を凍らせるので親とか彼氏からうんざりされている。両親には愛されて育ったのに、母親に「あんたが私に食うだけ食わせて肥満にしたから、がんにもなったんだ」と言い放つような性格。わー。そんでまた好意でアルバイトを紹介されたのにちょっと嫌なことがあったからって無断欠勤してすぐに辞めちゃう。
主人公側の視点で丁寧に書いてあるからどういう思考回路でそういう言動になり、しかも反省したりしていることもわかるから「まあこのひとも苦しいんだな」と思わないでもないけど、やー、このひとこの後の人生どうするんだろうね。ずっと誰かや病気のせいにしてふらふら寄生して生きてくのかね。
この小説のラストが出口はどっちですかという主人公の問いに【アルバイトらしい店員の女の子はちょっといやな顔をしてから、遥か遠くの方を指差した。】なので、まー……作者も容赦なく突き放したもんだなあ。

ネイキッド
二年前、夫から一方的に離婚を言い渡されて、夫の会社で働いていた私は自動的に職も失った。】という36歳の女性が主人公。このひとは学生時代から真面目に頑張ってきたひとで、いかに「有意義」に時間をつかうかに気を配り、勉強も、仕事もテキパキとこなしてきた。【働くことが好きで、怠けることが嫌いだった。】と。だが離婚前に夫から【さもしい生き方】といままでの生き方を全否定されてしまう。
この主人公は読んでて嫌悪感とかは無くて、どっちかっていうとこの「夫」側にも大いに問題があるなと思うんだけど、でも男の人がこういう展開で妻にこういうふうにされたら逃げたくなるというのもなんとなく想像は出来て、どっちが悪いとかそういう問題じゃなくてあー難しいなあ、と思う。
「どうしたらよかったのか」とかそういう「答え」が書いてある話ではないので、ただこのひとの人生のある時期の心理状態とか起こったこととかがこれも丁寧に書いてあるので状況がすうっと飲み込める、で、彼女には是非立ち直って元気になって欲しいと願ってしまう、最後このひとが泣けたことでスッキリ出来たんだったら良いんだけどなあ。

どこかではないここ
大学生と高校生の娘がいる43歳の主婦が主人公。結婚して21年。夫婦仲も良好。ただ、数年前に夫がリストラに遭い、収入が大幅に減ってしまったのでいままで暇な専業主婦だった主人公が夜間のパートに出たり、夫のお弁当を作ったり、お金の心配をしなくてはならなくなった。年老いた両親のうち父親だけ事故で亡くなってしまい、愚痴っぽくなった母親に毎日会いに行かなくてはいけない。そして一番の悩みは娘がたびたび家に帰ってこなくなったこと。
大変だなあと読んでいるだけでしんどくなるが、電車の運賃をごまかすのとかそういうこと平気で出来てしまうこのひとの神経を疑う。娘に「私、お母さんみたいになりたくない。」「お母さんの生き方が嫌いなの。」とこれも全否定されるのだが、恐ろしいのがそのあとの彼女の思考だ。
今流行りのプチ家出というやつだと思っていたのに、そんなにしっかり独立計画を立てていたなんて。高校を卒業させてほしいなんて言うくらいだから、本当に一刻も早く自立したいんだなと思った。こんなことを考えてはいけないが、まだ中退を選んでくれた方がよかった気がする。そうすれば「大検に受かるまで」とか「仕事が見つかるまで」とか言って、もう少し娘をここへ引き留めておけたかもしれない。
うわああああ。怖いよう!
ベストをつくしてきたつもりだったのに」ってこのひと全然自分が異常だって気付いていないんだ、でもこういう面が多少なりともある親っていまいっぱいいそうだよね…子離れしていない親がすんごくリアル。

囚われ人のジレンマ
仕事をしている25歳の女性が主人公。彼女の恋人は一つ年上だがまだ大学院の博士課程。付き合い始めて7年になる。そんな彼がある日突然プロポーズしてきた。まだ自分で働いておらずアルバイトもしておらず親がかりで生きている彼のどの口がプロポーズと言えるのかと戸惑う主人公。その戸惑いとか思考回路を丁寧に描いてある。ふたりとも心理学関係の勉強をしてきたこともあって、分析も絡めてある。それだけなら別に二人の問題だし納得いくようにすればいいと思うのだけど全然ついていけないのがこの女性の節操のなさ。妻子ある仕事がらみのデザイナーの男と不倫をしているし、気晴らしに行ったコンパで会った男ともホテルに行ったりしている。ついていけないなあ。
この小説でちょっとそうだなと思ったのは【損の種をまいているのは、往々にして自分なんじゃないかな。】という分析、うーんそれって真理かも、気を付けて生きねば。そしてこの頭でっかちの学生彼氏が言い放つ、
君はその辺の頭の悪い女と同じじゃないか。もし僕と美都の性別が逆だったらどうだ? 男だとフルタイムで働いて、女房子供を養えなきゃ結婚する権利がないのか? 金を稼ぐ人間だけがそんなに偉いのか? うちの教授みたいに、くだらない啓発本でも書いて稼げば美都は俺を尊敬するのか?
というセリフが実に興味深い、面白い。正論だよねー。でも正論だけで女は口説けないと思うよー。この美都ちゃんはそんな甲斐性ないみたいだよー。親にも養ってもらってきたし、結婚してからも庇護されたいんだって。
お互いが「どうすれば自分は得をするか」しか考えていない二人。「囚人のジレンマ」とはなんとも皮肉な冷静なタイトルだなあ。

あいあるあした
この話だけ男性主人公。脱サラして居酒屋をしている36歳(最後の方で明かされる)の男性。店の常連客の女性のひとりと深い仲になっている(というか成り行きで家に転げ込まれた形)。
妻子はいないのかなと思っていたら後半で若いころに結婚して短い期間で離婚し、11歳の一人娘がいることが判明する。家族のためにと仕事命でバリバリ働きまくっていたらそれをさびしく思ったのか妻が浮気し、別れてほしいといわれてしまったのだ。それでプツンと切れてしまい仕事も辞め、どこか捨て鉢のように生きている男の唯一の弱点であり宝物がふだんは一緒に暮らせていない娘、っていうのは『恋愛中毒』でも出てきたなあ。やっぱりこれは特別な感じになっちゃうんだろうなあ。息子だったら同じように大事なんだろうけどまた少し違うんだろうなあ。でも娘に夢を見すぎだよ…。
このひとは、奔放に生きる女性、すみ江とうまくやっていくことで人生のいろんな価値観とかが少しずつ変わっていく、ようなことが暗示されている。明るい明日が見えて、小説としては巧いと思うがリアルに考えたら何もかもが危うく見えて娘さんにはお母さんについていくことを勧めたい。

2015/06/20

恋愛中毒

恋愛中毒 角川文庫
恋愛中毒 角川文庫
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KADOKAWA / 角川書店 (2012-10-01)
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kindle版
■山本文緒
本書の単行本は1998年11月刊で、これはその文庫版の電子書籍版(解説は省略されている)。1999年第20回吉川英治文学新人賞受賞作。
単行本が出た当時、「本の雑誌」で北上次郎が絶賛していたのを覚えている。ただ、わたしは恋愛小説が苦手なのである。『恋愛中毒』というタイトルなんだからとびきり濃厚で重たい「恋愛」であろう、しかもすんごく色っぽい表紙で、あー全然向いてない話だろうなと思った。その後もこの小説は売れ続け評判が良さそうだったので気にはなったが敬遠していた。
それから20年近く経ち、このあいだ伊藤理佐と山本文緒の共著『ひとり上手な結婚』(エッセイ)を読み、ラジオでちらりと聞いた「紙婚式」もそのトーンがずっと残っているしやっぱり山本文緒は気になる、相変わらず恋愛小説は苦手だがこのひとの代表作くらいは読んでおきたいと思った。kindleが良いのは「サンプル」を無料ダウンロードして最初の十数ページを試しに読んでみることが出来ること。文章がどうしても肌に合わない場合などはこれで切れる。山本文緒のこれはそうではなかった。「続きを読んでみたい」と思えた。

最初に「introduction」としてあり若い男性の視点で別れ話がこじれて相手の女性に会社まで乗り込んでこられて…という話ではじまる。ニュースなどをみていると恋愛話がこじれた場合最悪は殺人事件にまでひとは至ることがある、と毎日知らされている気がする。殺すまでいかなくても相手に執着し、つきまとったりして迷惑をかけて「好き」という気持ちがドロドロになって行ってしまうことがある。で、この小説のタイトルが『恋愛中毒』。やはりそういう話か、と腹をくくって続きを読んだ。

この話の主人公は現時点では老眼鏡をかける年齢になった水無月という事務職の女性である。離婚歴がある。
彼女の、離婚してしばらくしてお弁当屋さんでアルバイトをしていたところから本編がスタートする。
離婚歴があるというからその結婚にまつわる恋愛がメインなのかと思ったらそうではなくて、新しく出会うある人物との「恋愛」がメインの話だった。なぜいま「恋愛」をカッコに入れて括ったかというとわたしはこの水無月さんと相手の創路の間に起ったいろいろなことを恋愛とストレートに呼ぶのにいささかの抵抗を覚えるからである。これが恋愛、かなあ、まあ、イロコイ沙汰ではあるよなあ、2人の人間が出会って少なからず好感を持ち合い身体の関係を持つことをすべて恋愛というのならまあそうだろう。
でも水無月さんのこれって恋愛感情もあるけどそれよりももっと強い別の感情が伴ってはいないか…?

読んでいて、これほど共感し難い、好感を持てない(というかはっきり言って苦手な)主人公も珍しかった。彼女の考えていることがものすごく丁寧に描かれているから「こうで、こうで、こうだからこのひとはこう考えてこういう行動をしている」というのを追いかけていくのになんの負担もかからず、すっと読めるのだがそれに対して「なんでそんなことするのかな」と疑問を感じたり「こういう状況だったらわたしは絶対にそうはしないよなあ」と感じてばかりだった。「恋愛小説」の主人公ってこういう感じか、恋愛体質のひとってこうなのか、だからわたしと違って当然なのかもねとも思った。そうやって違和感を感じつつも消極的で小市民的な女性の生活を丁寧にたどっていくこの話は非常にうまくて面白くて、そんななかで「自分のことをしていろ」と言われてライバルの店の前に張り込んで彼女がとった行動を読んだときに初めてちょっとギョッとなった。びっくりした。あれっ、このひとこういう面があるんだ。普段はこれ隠してるんだなあ。

中盤くらいまで読んだ時点で「悪くはないけど、やっぱり恋愛小説って合わないなあ、この話のなかのひとの恋愛に全然気持ちが共鳴しないし乗らないからいつまでたっても他人事だなあ」とか考えた、ただ懇切丁寧に築き上げられたこの城を途中で離れるのは逆に意識の中に留まり続ける結果にしかならないからとにかく作者が最後のけりをつけるまで読み切ってしまおう、「早く読み終わりたいなあ」という気持ちで読み続けていた。

ところがこの小説の肝は終盤にあったのである。
ある時点から主人公が思いもよらない行動に出、それは思えばあの「ギョッ」とさせられた時点で見せていた一面だったのだが、そこから怒涛のごとく話が急展開する。もはやこれは「恋愛小説」ではない。
なんだこれは!
凄い!
驚愕しつつ息を詰めるようにして読み、そして最終部、息を整えるようにして最後まで追い、しばらく茫然とした。そして冒頭のイントロダクションからの水無月さんを回想した。あれも、これも、そうか、そうだったのか…。
だからこの小説って絶賛されたんだなあ、山本文緒ってこんなの書くひとだったんだなあ、すごいなあ、と感嘆した。
こんな小説の感想なんてどう書けばいいんだろう、ネタバレせずにこの感情を表現するなんて無理だと思った。『恋愛中毒』とは本当に付けも付けたり、よく言うよ、巧いなあ、やられたなあ。この話の主人公に「共感」出来なくてある意味「正解」だったんだなあ……。

1998年に出版された小説であれだけ評判になったのだからこういうジャンルに抵抗のない方はとっくの昔に既読であられるだろう。避けてきたわたしは今頃読んで今頃びっくりしてひとりで昂った感情を持て余してわたわたしている。
水無月さんは、どうしてこういう「恋愛」をするのか、両親のこと、とくに母親との軋轢について書いてあったが正直この程度で人間どうこうなるのなら世の中無茶苦茶になっていると思う、お母さんはそれほど異常とは思えない。良いとは全然思わないけど、特に女性にはよくいるタイプじゃないか。仕事にかまけて子どものことは放ったらかしという父親も特にこの世代の親なら珍しくない。
結婚していた夫の良くないところは確かに自分がこういうふうにされたら「嫌だなあ」と強く思うがでもそこからそうなるのは水無月さんがおかしい。
結婚する前にある人物がしたことで水無月さんがとった行動もわからないでもないけどやっぱり異常だ。
だから「誰かのせい」じゃないと思うんだよね。
でも水無月さんは必死で生きてきたんだよね。「親のせいで」「夫のせいで」誰かが自分にしたことは自分を非常に傷つけた、「だから」「でも」生き延びるために自分はこうしたらいいんじゃないか、今度こそ、とがんばってきたんだよね。
神様に祈るのではなく、自分に言い聞かせるようにして。キャッチコピーのように帯に書いてあった「どうか、どうか、私。」ってこういう意味だったのか――。

恋愛小説なんだろうけれど、サスペンスというか、うん。
水無月さんがしあわせに平穏にその後の人生を送れることを心から祈る。

↓印象的だった単行本の表紙。文庫版の表紙は毒気抜けすぎですな。

恋愛中毒
恋愛中毒
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山本 文緒
角川書店
売り上げランキング: 431,693

2015/06/17

夫婦善哉

夫婦善哉
夫婦善哉
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(2012-09-27)
kindle版
■織田作之助
オダサクの代表作、初読み。
この話の初出は「海風」1940(昭和15)年4月。
時代設定は蝶子と維康柳吉が出会ってしばらくして奥さんなどにばれて熱海に駆け落ちしたときに関東大震災に遭うから1923(大正12)年頃からだいたい10年くらいの間を描いてある。

法善寺横丁に行けば今も夫婦善哉を出す店が営業しているし(前を通ってそうだと教わっただけで入ったことはない)、この作品中には大阪の具体的な地名や店の名前がたくさん出てくるので詳しくないわたしでも「あ~あのへん」とわかるので詳しいひとにはすごく楽しいだろう。

題名と、オダサクのだいたいのイメージから、「貧しいけれど、夫婦仲良くっていう感じで、大阪の町の描写が活き活きとしてるんかな」と読む以前はぼんやり想像していたが、実際読んでみたら「夫婦仲良くって」以外は当たっていたけれど肝心の「夫婦」がすごすぎた。っていうか正確に言ったら蝶子と柳吉は夫婦じゃないし…最後の3行らへんは晴れて夫婦になってるんだろうか、そこについての言及はないけどまあラストの境地まで行ってたらそんなのはどっちでもいい問題なのかもしれない、イヤそんなことはないな、蝶子さん結婚したがってたもんなあ…。

蝶子は一銭天麩羅を揚げて口を糊している種吉とお辰のあいだに生まれた子で、家は年中借金取りが出入りする貧しい家。ひとり弟がいると書いてあるがこの子は直接1回も出てこない。
種吉は気はいいのだが算盤がはじけていないというか、商売がへたくそだから儲からないようだ。しかし読んでいると実に子どもに甘く、小学校を出た蝶子が女中奉公に出た時も半年くらいで手にあかぎれができているという理由で連れ戻して来たりしている。そのあと曽根崎新地の芸者の下地っ子となり、やがて17歳になった蝶子が芸者になると聞いて反対する。良い親父さんじゃないかと思うのだがびっくりすることに蝶子は「是非に芸者になりたいと駄々をこねる」んである。理由は「持前の陽気好きの気性が環境に染まって」ということらしい。だから「辛い勤めも皆親のためという俗句は蝶子には当て嵌まらぬ」んだそうで…。

この蝶子が恋に落ちるのが柳吉なんだが……女房もちで4つになる娘もいる31歳の男なんだが……最初から最後までこの男のどこが良いのか何が蝶子をそこまで尽くさせ別れたくなかったのかがさーっぱりわからなかった。
柳吉の父親の商売は理髪店向きの石鹸やらクリームやらを扱う卸問屋で、柳吉は長男なんだがいやー絵に描いたようなダメなぼんぼんで。
本文にも書いてあるんである「その仲は彼女の方からのぼせて行ったといわれてもかえす言葉はないはずだと、人々は取沙汰した。酔い癖の浄瑠璃のサワリで泣声をうなる、そのときの柳吉の顔を、人々は正当に判断づけていたのだ。夜店の二銭のドテ焼(豚の皮身を味噌で煮つめたもの)が好きで、ドテ焼さんと渾名がついていたくらいだ」。

芸者と駆け落ちした柳吉は父親から勘当され、2階を借りて所帯を持つ。柳吉はどうせ父親の勘当なんてすぐとけるだろうとタカをくくって働かない。仕方がないので蝶子がヤトナ芸者(臨時雇いでお座敷に出張する有芸仲居のこと)をやって一生懸命働いて少しずつ小金を貯める。それをこのバカ柳がカフェ(この当時のは今のそれとはだいぶ意味合いが違うようだ)や色街で1日とか2日で使い果たしてしまう、そういうことの繰り返し。

「なんで、蝶子さんはこんなアホと別れて楽になろうとか思わへんのかなあ」と何度も思っていらいらしさえもしたが、要するに、好きだったんだろう。お金がなくてもなにがなくても柳吉さえいれば幸せで、柳吉を失ったらどんなにお金を貯めても意味がなかったんだろう。すごいなあ。

柳吉のほうはじゃあどうなのかなと思うけど、隙あらばお金のある実家に戻って無心して、挙句の果てに蝶子にウソでいいから「別れる」と言えと、そうしたら実家がお金をくれるからと騙そうとさえする。どうも、愛とか好きとかじゃなくてこのアホは苦労とか貧乏に慣れていないからそれがしんどくて、しんどいのがイヤだからそれを楽にしてくれる方向であれば別に蝶子と別れるのもまあ仕方なしと考えていたっぽい、っていうかなんにも考えてなかった、のかもしれない、ほんまにどうしようもないしょーーーもないアホである。

ちなみに奥さんは柳吉と蝶子のことが発覚してすぐ里に帰りそのあと籍も抜いている。奥さん愛想をつかすの早すぎ、でもこの件がなくてもきっとこの男のアホぶりにあきれてたんでしょうね、で、このアホが店継いだら速攻つぶれるんじゃないかと危惧してたんでしょうね。ふたりの娘は店が引き取り、柳吉の当時18歳だった妹さんがその面倒をみたという。で、後々この妹さんがお婿さんをもらって店を継ぐことになる。ちなみに柳吉は最初このお婿さんに無心に行き、けんもほろろに断られた後は妹さんに何度もタカり、それで生活を楽にとかならまだしもそのお金で遊んでしまうというアホの極みである。

蝶子は尽くすタイプでえらいと思うが性格的にはなかなかきついところもあって、健気という感じはしない。途中から柳吉が遊んで帰ってくると折檻しまくるようになるし、どうやらどんどん肥えていったらしいし、2階を貸してもらっている主夫婦に「あれじゃあ、男は逃げていくわ」と言われてしまうような言動がある、でもそこらへんは実は夫婦でないとわからない事情があって、蝶子がやらせているのではなく柳吉がわがままをしているのだったりもする。

「惚れた弱み」とはいうけれど、蝶子のそれはまさにそうとしか言いようがない、だから第三者が冷静な目で見てそれを理解するのは難しい。本当に純粋に「好き」だけでここまでやっているのか、そこには「女の意地」とか「男だけ自由になることへの許せない気持ち」というのもあるんじゃないかと勘繰ってしまうんだけどうーんそのへんはどうなのかなあ。
とりあえず最後の部分を読んだら「あんたらもう知らんわ、勝手にしぃ」というか「夫婦喧嘩は犬もくわんとはこのことか」という気持ちになる、同時に「まあとりあえず幸せそうでよかったやんか」とも思う。

そうそうオダサクといえば「自由軒の玉子入りライスカレー」だが、この作品に出てくる。これもいまも残っているはず(ちょっと前にテレビで観た)。おしゃれとか今風とかからは遠い食べ物ばっかりだけど、関東炊きのお店とかも残ってそうだし、大阪南の美味しい食べ物がたくさん出てくるこの本を片手に食べ歩きとかしてもディープな大阪って感じで楽しいかもしれない。


2015/06/16

路 [ルウ]

路 (文春文庫)
路 (文春文庫)
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文藝春秋 (2015-05-22)
売り上げランキング: 258
kindle版
■吉田修一
本書は「文學界」2009年1月号から2012年2月号に連載され、2012年文藝春秋社から単行本化、2015年5月に文庫化されたものを底本とした電子書籍版である。
吉田修一の作品を初めて読んだのは『パレード』の単行本(2002年)だと思うがその後で文庫の『最後の息子』に戻って追いかけ、2004年の『7月24日通り』あたりまでは出るたびに全部読んでいたが2006年の『ひなた』を読んだ後は「もういいか」という気持ちになったので離れていて、去年ごく久しぶりに2009年に単行本が出た『横道世之介』を文庫で読んで気持ちの良い小説を読んだなあと感動した。
というわけでわたしは「吉田修一の良い読者ではない」わけだが、この『路』は単行本が出たときに北上次郎が書評でかなり褒めていて、台湾に日本の新幹線を走らせた件が題材とあったので「へ~随分硬派な題材だなあ、プロジェクトXみたいな話かな?」と気になっていた。

で、文庫化(電子書籍化)したんで買ったわけだが読みはじめてしばらくで「思ってたんと違う…」とは気付いたが、中断するような理由もなかったので気持ちを切り替えて楽しむことにした。
まあ吉田修一らしいっちゃらしいし、これはこれでそう悪くはないのでこういうのを求めて読んだ場合はもっと感動していただろう。
全然硬派でなくて、むしろ甘いドラマチックな要素があちこちにあって、台湾新幹線を走らせるまでの工程やそれにまつわるエピソードも書かれるが、それがメインというよりはそれに直接・間接的に関わったひとや台湾に縁のあるひとたちの人間ドラマにウェイトが置かれている。

多田春香は学生時代に台湾に旅行に行って、そこで道案内をしてくれた青年に連絡先を書いたメモをもらったがそれを無くしてしまい、絶対連絡するつもりだったのにそれが叶わなくなってしまう。その後、恋人が出来たが、その件はずっと気にはなっている。就職先で台湾新幹線の部署に配属され台湾で働くことになった。
安西誠は台湾新幹線部署勤務で、日本に妻子がいるが妻から嫌われていて台湾で出会った明るい女性に惹かれ始めている。
劉人豪は日本からの旅行者を案内したことが発端で日本に関わりが出来、日本の大学で建築を学び日本の会社に就職した。
葉山勝一は台湾生まれで青春をそこで過ごし戦後日本に引き揚げた後、大手建設会社をばりばり勤め上げていまは退職しているが、一度も台湾には帰っていない。
台湾の青年、陳威志はきちんとした職に就けず、兵役後は知り合いの店でぼんやり店番をしていたが好きな女の子と結婚したいしこのままではいけないと考えていて…。

主な登場人物はこんな感じだが、彼らに関わる人物などがほかにもいろいろ出てくる。最初に春香が出てきたし扱われ方からも彼女がこの小説の主人公だとは思うが、安西の話に同情・共感したりその妻の気持ちを思いやったり、葉山氏の気持ちに深くしみじみと感じ入ったり、陳威志の最初の鬱屈から青年らしい明るさに思わず惹きこまれて笑顔を誘われたり、いろいろなドラマがある。
特に葉山氏の話は昔の台湾と日本の関係があっての個人の事情で長い年月が積み重なっているだけにいろいろ考えさせられたし、春香とその日本人の現在の恋人と、台湾での1日だけの出会いの青年との件がどうなるのかという恋愛模様は吉田修一のお得意分野だけに安心してどきどきしながら読めた。

基本的に話の雰囲気から「これはバッドエンドにはならないだろう」と途中から感じていた。だって主軸が台湾の新幹線の話で、それは事実だから最終的にちゃんと走ったことはわかっているわけで、で、その周囲に散らされた人間ドラマだけがぐちゃぐちゃに悪いほうに転がったら「小説的に」変だもの。

この話には人間的にも能力的にもよく出来た登場人物が多いが、なかでも劉人豪はすんごい素敵。彼が葉山氏と知り合って親しさを増していくのとか、ものすごい清々しさでまぶしかった。葉山さんが台湾に行けるようになって、最後旧友と交わす会話にはかなり心を揺さぶられた。外で読んでいたので気を緩めなかったが家で気を抜いていたら泣いてしまっていたかもしれない。春香の前向きでまっすぐな若さは自然に応援したくなるし、ほんとに「悪い人」が出てこない。

台湾に行ったことはなく、知識もないが、震災の時などに大変お世話になった国、もっと日本は仲良くしたらいいのにと常々思っていたけど本書を読むと台湾がさらに好きになる。また、食べ物が美味しそうだなとは思っていたけどやっぱり日常の外食がさかんで手軽で美味しい店がたくさんあるようだ。南国というイメージはあんまりなかったけど地図をみてみればそうかそうだよな…。

2015/06/14

芸人と俳人

芸人と俳人
芸人と俳人
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又吉 直樹 堀本 裕樹
集英社
売り上げランキング: 1,663
■又吉直樹・堀本裕樹
ピースの又吉さんが俳句の本を出す、「初めての俳句入門」というアオリ文句をネットで見てまず思ったことは「『初めて』かあ、『初めて』かなあ? 又吉さん『カキフライが無いなら来なかった』とか『まさかジープで来るとは』とかいう自由律俳句の本を出してはるし、きっちりした「俳句」は初めてにしてもめっちゃ素養ある「初めて」やんなあ」ということだった。つまり最初から「このひとは『出来る』初心者やろな」とハードルは上がっていた。あと表紙の写真がめっちゃオシャレでセンス良いな~とも思った。
しかし句集はほぼ買わないのでどうかな、スルーしようかなとも迷った。実際、発売して間もない先週に地元の書店に積んであるのをぱらりと中身を確かめて「あ、句集っていうか対談形式で学習過程を読んでいく形なんや、これは親しみやすいな」と思ったけどその場では買わなかった。しかしずっと意識のけっこう真ん中辺にとどまり続けて気になるので「やっぱり読みたい」と昨日同じ書店に行ったら残り1冊になっていたので焦って購入。俳句の本なんてあんまり売れないだろうとタカをくくっていたが又吉さんの人気をナメたらアカンのだった。

俳句とか短歌というのはどの流派、どの先生に教わるかでいろいろ違ってくると思う。この本の先生、堀本裕樹というかたについては何の予備知識も無かったが読んでいくと結構きっちり昔からの型を大事にする派なのかなという感じがした。又吉さんは1980年生まれ、堀本さんは1974年生まれで年齢の差は6歳、同世代感覚もありそうな、わりと近しい感覚の師弟かなという感じ。先生が親世代なのか、兄弟世代なのか、親よりもっと上なのかで教わるスタンスとかも変わってくると思うので…。
「俳句を習う、というのと同時に俳句に親しむ、という感じでこの先生なのかな」とかも考えた。
実際に読んでいくと、句の解釈をする中で恋愛の絡んだ思い出話とかに触れる箇所とかでそういうのが感じ取れた。読んでいるほうも気軽な気持ちで構えずに楽しめた。

帯に「2年の学びを経て」と書かれており、「2年もかかって又吉さんが少しずつ得られたものを1日で読んでしまう罪悪感」みたいなのを最初に持ったがしかし単行本1冊を2年かけて読むという読み方はわたしは出来ないので大事に丁寧に活字を追ってそれでも申し訳ないけれども1日(正確に言うと昨日の午後から今日の昼前)で読ませてもらったがすごく中身が濃くてでもわかりやすくて難しさが無くて、最初に思った通り又吉さんのレベルが高かった。具体的に1回の連載ごとに句を作っていくのだけど最初は定型句じゃなくて自由に作ってあって、3回目から指定されて定型句になる。それと、「季語エッセイ」というのが4つ2章ごとに挟まっていて、春と秋が又吉さん担当なのだけどこれも独特の視点で奇妙な凄みみたいのを感じる雰囲気を放っていた。

第8章で「句会」に挑戦するのだけど、そのメンバーがまた豪華! 又吉さん、堀本さん、中江(有里)さん、穂村(弘)さん、藤野(可織)さん。さすがのハイレベルな句会ですごかった。単純に穂村さんのファンなので嬉しかったし。
あ、ファンといえば直接は出てこなかったけど長嶋(有)さんのお名前が本書に出てきて「おっ」と思ったね、句会に参加されてたらもっと嬉しかったんだけどまあ難しいか…。

本書の初出は「すばる」2012年10月号から2014年10月号「ササる俳句 笑う俳句」という連載。
目次
第一章 俳句は「ひとり大喜利」である
第二章 五七五の「定型」をマスター
 季語エッセイ 春│蛙の目借時│又吉直樹
第三章 「季語」に親しもう
第四章 「切字」を武器にする!
 季語エッセイ 夏│子蟷螂│堀本裕樹
第五章 俳句の「技」を磨く
第六章 先人の「句集」を読む
 季語エッセイ 秋│灯火親しむ│又吉直樹
第七章 「選句」をしてみよう
第八章 いよいよ「句会」に挑戦!
 季語エッセイ 冬│狼│堀本裕樹
第九章 俳句トリップ「吟行」
第十章 芸人と俳人
 単行本特典 芸人と俳人の十二ヶ月

俳句を学習していくスタイルの本というと以前『他流試合 兜太・せいこうの新俳句鑑賞』というのを読んだことがあるけどあれをまた読み直してみたくなった。

2015/06/09

漢方小説

漢方小説 集英社文庫
漢方小説 集英社文庫
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集英社 (2014-11-07)
売り上げランキング: 33,191
kindle版
■中島たい子
この小説は「漢方小説」第28回すばる文学賞受賞作であり、2005年第132回芥川龍之介賞候補作でもある。
芥川賞候補作だから、『文学賞メッタ斬り!』シリーズでこの作品についても書評を読んだことがあった、ような気がする。単行本の表紙イラストと文庫本のそれは同じイラストレーターさん(南伸坊だった!)の手によるもののようだが微妙に違っていて、わたしの印象に強く残っていたのは文庫版のほうだった。ちなみに電子書籍版だと表紙のイラストは無い。カナシイ。
「漢方」とか表紙の雰囲気とか好きだしわりと興味を持っていたようなのだが何故だか読まずにずっと来てしまい、先日、何気なくkindleストア内をウロチョロしていてこれに再会し「あっ! そういえばこれ今こそ読みたい!」と買ったのだった。

川波みのり(31歳、脚本家、独身)は季節外れの牡蠣を食べたことがきっかけで胃がおかしくなり、処方された胃薬を飲んだところ体中が痙攣して彼女曰く「セルフ・ロデオマシーン」のようになってしまい救急車で病院に搬送される羽目となった。ところが医者が検査してもどこも悪いところはないと云う。
病院をいくつも回り、調べてもらうが医者はみな首をひねる。しかし現に体調が悪いのだ。胃が食べ物を受け付けないのだ。
心療内科を受診すべきだろうかと考えつつもみのりは昔お世話になった漢方の医者の門をくぐる。西洋医学がダメでも漢方ならもしかして、というわけだ。
しかしそもそもみのりが季節外れの牡蠣を食べたのは元彼と久しぶりに会ったときで、そのとき元彼が結婚すると知らされてショックを受けたときで――。
でも「昔の男が結婚したショックで体を壊しただなんて、ぜぇーったい、死んでも思いたくないっ!」んだそうで。
……イヤ読んでたらだいたいのひとは「それが原因に決まってるじゃない…」って思うと思うんデスケド。

「漢方小説」だけどそんなに漢方医療について小難しく書いてあるわけでもなくて、31歳の女性が興味を持って自力で調べる程度で身近な感覚で書かれていてわかりやすい。また、漢方の医者が若くて格好よくて乙女心をドキドキさせる、っていう設定がなかなか興味を持って読ませてくれる要素となっている。どっぷりした恋愛ものは苦手だけれど、こういうほんのりとした恋心は良いな。「漢方」についてはしばらく前にテレビでお医者さんが解説しているバラエティー番組をたまたま観たんだけど、なんだかとっても奥深くて面白い世界だな~と感心した。この小説は正直その番組より専門性が落ちる。それは本作品が「漢方」について書いた小説じゃなくて、あくまで主体は「三十路になったけれど、仕事もプライベートも自分でもよくわからない状態になっておまけに健康まで損なってしまった」ちょっと元気のない主人公の女性にあるからだ。その彼女がどういうふうにして「元気」に戻っていくかが書いてある。

  『じゃ、私はいったいどうしたいの?』
  私ぐらいの歳の女がよくする自問だそうだ。自分はどうしたいのか? あらためて問われると、答えるのは難しい。

同世代の女友達や飲み仲間との会話ややりとりが等身大な感じで、みのりの内面描写などもほどほどにリアルな感じで、すごく読みやすいすーっと読める楽しい小説で、展開も気になってどんどん読んじゃった。面白かった。よく考えたらこういうテーマなのに全然重たくないんだよな。深刻さがあまり感じられないというか、主人公があっさりしてるからかな。書き方の問題なんだろうか。芥川賞候補にしてはちょっと軽すぎるような気もするけど…。純文学っていうよりは大衆小説っぽいかな?

2015/06/08

星条旗の聞こえない部屋

星条旗の聞こえない部屋 (講談社文芸文庫)
講談社 (2014-05-16)
売り上げランキング: 27,782
kindle版
■リービ英雄
以前から斎藤美奈子の書評集などでその名前を見かけて頭の隅に引っかかっていた作家の小説を初めて読んだ。

その筆名からハーフなのだろうかと思っていたが、ウィキペディアによれば
リービ 英雄(リービ ひでお、Ian Hideo Levy, 1950年11月29日 - )は、アメリカ合衆国カリフォルニア州バークレー生まれの小説家・日本文学者。本名、リービ・ヒデオ・イアン。日本語を母語とせずに日本語で創作を続けている作家の一人。現在、法政大学国際文化学部教授。ユダヤ系アメリカ人。
東欧系ユダヤ人の父と、ポーランド人移民の母親をもつ。父親は外交官で、英雄は少年時代から台湾、香港、アメリカ、日本と移住を繰り返す。”ヒデオ”は父の友人に因んで付けられたもので、幼少時からの本名である。
とのこと。
日本語の美しさに魅了されたから日本語で小説を書いたらしいが、本書の単行本あとがきにある、父親の仕事の関係で【はじめて日本に住んだ十六歳からこの二十数年間、普通のアメリカ人がカリフォルニアやミネソタにおいて英語で経験する人生の出来事を――物語の最小単位を――ぼくは桜木町、西早稲田、本郷、高円寺、新宿、東中野という場所において日本語で経験した。】というのは大きいだろう。人間形成の最も盛んな多感な時期を日本語で過ごしたひとなのだ。「日本語で経験した」ものを基に小説を書くのだから、それをわざわざ英訳する必要があるのか?ということだ。

『星条旗の聞こえない部屋』は表題作と「ノベンバー」「仲間」の3つの短篇から成るが、いずれも主人公を同じとし、時系列的にも続いていることなどからこれ1冊で1つの長篇のようにも読める連作集。というか、短篇として2篇目・3篇目だけを読むより断然1篇目から続けて読んでこそ、じゃないのかなあと思う。
この小説は著者の自伝的要素が強いようだ。
1967年の日本が主な舞台。アメリカ人の両親を持ち、離婚後母親に引き取られワシントンの高校を卒業した17歳のベン・アイザックは外交官である父親と暮らすために横浜にやってきた。父親は20歳も若い中国人と再婚して一子をもうけている(その為、ベンもユダヤ系の祖父母、親戚などから絶縁された)。
肌が白く淡い色の髪を持つベンはどこから見ても「外人」で、常に視線を集める。そしてその視線はあまり好意的ではない。母語は英語だが、幼いころから父の仕事の関係で東洋に暮らした彼なので「アメリカ」が祖国という意識は薄いし愛着も無いのだが、日本人からは「外人。アメリカ人」としか見られない。一部の英語の習得に熱心な日本人の学生たちに英語での「議論」の相手に付き合わされる日々に違和感を感じていたある日、ベンは「日本に来て、どうして英語で喋っておるんですか」と真っ向から質問してくる日本人青年・安藤義晴に出会うことで蒙を開かれる。

だが日本語に興味を持ち、その勉強をする息子に向かって父親が云う台詞が非常に印象的である。あまりにも真実を突いていて。

  「お前がやつらのことばをいくら喋れるようになったとしても、結局やつらの目には、ろくに喋れないし、喋ろうと思ったこともない私とまったく同じだ。たとえお前が皇居前広場へ行って、完璧な日本語で『天皇陛下万歳』と叫んでセップクをしたとしても、お前はやつらのひとりにはなれない」

ああ、日本ってそういう国だわ…とすごく納得する。
中学だったか高校だったかで教科書に「ガイジン」というのは差別的に感じるから「外国人」と言ってほしい、という趣旨の文章が載っていたのを読んで衝撃を受けて胸に刻んだのだがそれと思い合わせて深く頷いてしまった。

日本人でないからというだけで拒絶反応を起こすというのは英語が話せないから、というのはまあわかるんだけど、この小説で描かれている拒絶はもっと敵意が含まれていて、1967年の日本人はアメリカ人に対してあんまり好感度高くなかったのかな。まあ、安保闘争とか真っ盛りの時代だしなあ。でも読んでるとベンが気の毒で…。日本語で話しかけているのにその内容を聞かず「外人が日本語で喋った」というそのことだけに反応するとか、リアルだなあ~有るよなそういうの~って。


 「ゴーホーム」……「国に帰れ」、「家に帰れ」。アジアの港町という港町で聞こえたこの素朴な喚き声が、しかしアジアにいるアメリカ人に対するもっとも酷な愚弄じゃないか、とベンは山下公園通りを見渡しながら思った。領事館の晩餐会にたびたび来ていたヨーロッパ人は違うだろう。フランス人、イタリア人ならきっと、肩をすくめて一笑に付すだろう。「おお、そのうちに帰るよ、チャオ、オールボアール、サヨナラ」。しかしアメリカ人は、家を捨ててまたは家から追い払われたからアメリカ人なのだ。アメリカ人が、さらにそのアメリカにいたたまれなくなってアジアの港町に寄りすがったとき、「ゴーホーム」は、今まで逃亡してきた道を引返せ、ということだ。家を捨てたときくすねた家宝を懐に隠して、泥棒のようにこっそりと逃亡してきた、その道をすべて引返せ、ということだ。特に、領事館の窓に集まった、アイザックという姓を負っている四人は、「ゴーホーム」と言われても、いったいどこへ行けばいいのか。ブルックリンなのか、上海なのか、それとも幻のエルサレムなのか。(中略)闇の中でそれを見おろしている父と継母と義弟に目をやった。家族というよりも亡命者の寄せ集め、「ホーム」のないヤンキーに「ヤンキーゴーホーム」。


ノベンバー」はNovemberのことで、1篇目の続きである11月の、「父の家を出た」ベンが「しんじゅく」をうろつき、凮月堂で頼んだコーヒーを前に1960年代のはじめ頃、母と二人で過ごしたアメリカの家の回想に続いていく。そして誰が死んだとは明記されていないが墓場に埋葬されるひととその弔問客の描写からそれと知れるジョン・F・ケネディの突然の暴力的な死――。

最後の「仲間」という短篇は「仲間」というタイトルから想定されるような仲良しの気心の知れた人間関係では全然なくて、父親に反発し家出したベンが新宿の夜中に営業している飲食店でウェイターのアルバイトをはじめる、そこの職場の人間関係を中心に書いてある。まあ職場の人間関係は国籍とか関係無しに嫌なヤツが1人はいるもんだけど、アメリカ人だっていうだけで敵意むき出しの「ますむら」は不愉快だしホントに馬鹿だなって思う。
つまりこの話は主人公が「仲間」についに入れなかったという話なのだ。どれだけ日本語をスムーズに話し、同じ制服を着て、彼らの真似を必死にしようとも、「やっぱりあいつらは違う」という日本人側の見方が変わらない限り仲間には入れないという、読んでいて悲しくって悔しくってたまらなくなる話なのだ。

この小説の中の登場人物たちが読む小説が具体的に出ていて、漱石の『こころ』と三島由紀夫『金閣寺』と吉本隆明。特に三島由紀夫については主人公の思考と重ねて言及されたり安藤の部屋にポスターが貼ってあったりといろんなシーンで触れられる。他のどの作家でもこうまでしっくりとこの作品には馴染まないだろうと思った。

2015/06/05

三国志 11 五丈原の巻 & 12 篇外余録


■吉川英治
蜀と魏の戦いのつづき。
孔明は姜維を仲間に得た。美少年でしかも優秀だったらしい。
蜀と魏の戦いは途中から諸葛亮孔明(蜀)と司馬懿仲達(魏)の智の戦いになる。
これが面白い。普通のチャンバラではなくていろんな変わった作戦とか木で作った馬?とか牛?とかの運輸手段が出てきたりとかして。
でも何回やっても孔明の作戦に司馬懿は負け続けだった。これでなんで蜀は三国志の長と成り得なかったんだろう…孔明はどういう負け方をして死ぬのだろうと思いつつ読んでいた。
敵ながら、司馬懿の人柄などが素晴らしくて、全然憎らしさを覚えなかったのも珍しい。
それにしてもまさか孔明がああいう死に方だったとは。
もっとその頃の蜀に関羽みたいな優れた武将がいたら孔明はもっと長生きできたんじゃないかな…。

そして彼の死から後も原典三国志は続くのだけれど、吉川英治はこれ以降は竜頭蛇尾だしいままでみたいに書いていくのはやめる、と「篇外余録」で述べて後は孔明についての補足・踏み込んだ描写、蜀のその後から三国志のその後ざっくりまとめて終わる。

三国志を読む前に三国志について持っていたイメージはすなわち諸葛亮孔明が出てきた以降の三国志だった。でも今回通して読んでみると孔明が出てくるまでのほうがむしろ長いことにびっくりした。

なお、孔明といえば頭にかぶっているものとか手に扇を持っているのとかほぼ定番のイメージがあると思うが、吉川英治の文章では以下のように書かれていた。
年まだ二十八、九としか思われぬ端麗な人物が、頭に綸巾りんきんをいただき、身には鶴氅を着、手に白羽扇を持って】(08 望蜀の巻・白羽扇)
四輪車の上の孔明は、綸巾をいただき鶴氅を着て、服装も常と変らず、手に白羽扇をうごかしていた】(10 出師の巻・王風羽扇)
鶴氅綸巾の人孔明、四輪車のうえに端坐して前へ進んできた】(11 五丈原の巻・中原を指して)
「鶴氅」とは【鶴の羽毛で作った衣。つるのけごろも。】[大辞林 第三版]。
「綸巾」とは【青糸で作った頭巾】[weblio]。

イラストでよく見るあの変わった頭巾みたいなのは綸巾と云うのらしい。そして白い扇を持って、馬じゃなくて四輪車に乗っている。ほかの武将などとはファッションや乗り物からして変わっていたんだなあ。
鎧を着たり馬に乗ったりすることもあったのかもしれないが、吉川英治の三国志ではあんまり記憶に無い。
「篇外余録」で孔明の人物像をあれこれ考察しているのも興味深く読んだが、中国でも半分伝説みたいな存在になってるっぽい。日本で云う弘法大使みたいなものかなあ…。

とりあえず三国志読了! 長かった! でも面白かった!
ちゃんとみっちり熟読したとは言えず、退屈なところはナナメに読んだりもしたのであまり大きな顔は出来ないのだけど、これで三国志の雑談くらいは出来そう。ちょっと調べたらやっぱり孔明関係の小説や漫画が多いのかな、あと曹操主人公のもあるようだ。どれか選んで読んでみようかな…。

2015/06/02

三国志 10 出師の巻

■吉川英治
関羽が死んだ。
曹操も死んでしまった。

この巻では珍しく著者吉川英治の注釈的な文章が本文中に幾度か出てきた。メモした部分を引用。
千七百年前の支那にも今日の中国が見られ、現代の中国にも三国時代の支那がしばしば眺められる。戦乱は古今を通じて、支那歴史をつらぬく黄河の流れであり長江の波濤である。何の宿命かこの国の大陸には数千年のあいだ半世紀といえど戦乱の絶無だったということはない。だから支那の代表的人物はことごとく戦中の中に人と為り戦乱の裡に人生を積んできた。
「三国志」を読みながら日本人との違いなどをぼんやりと考えたりしていたのでここを読んでフウムとなった。
また、関羽の死について(まだその死を書く前にこれが出てくるんでびっくりしたけど)、
全土の戦雲今やたけなわの折に、この大将星が燿として麦城の草に落命するのを境として、三国の大戦史は、これまでを前三国志と呼ぶべく、これから先を後三国志といってもよかろうと思う。「後三国志」こそは、玄徳の遺孤を奉じて、五丈原頭に倒れる日まで忠涙義血に生涯した諸葛孔明が中心となるものである。出師の表を読んで泣かざるものは男児に非ずとさえ古来われわれの祖先もいっている。誤りなく彼も東洋の人である。以て今日の日本において、この新釈を書く意義を筆者も信念するものである。ねがわくは読者もその意義を読んで、常に同根同生の戦乱や権変に禍いさるる華民の友国に寄する理解と関心の一資ともしていただきたい。
盛大なネタ晴らしをしつつ、この小説を書いた意義にまでふれているのを読んで成程なあと感じ入った。

曹操についての思い出話みたいなところで【玄徳の如く肥満してもいないし、孫権の如く胴長で脚の短い軀つきでもなかった。痩せ型で背が高く】とあるのだが玄徳について見映えがするとか誉める描写はいままであったが「肥満」とは初めて出てきた気がする、当時の中国ではふっくらしているほうが良かったんだろうな。しかし孫権のは俗にいう胴長短足…。曹操はいまの感覚でスタイルが良かったみたいですな。

本書では曹操だけではなく玄徳もついに一国の帝の地位となる。その前にまた逡巡するんだけど、孔明に説得されてこれを受ける。このへんを読んでいると玄徳がすごく周囲の目や評判を気にするタイプだったように思う。
大魏に大魏皇帝立ち、大蜀に大蜀皇帝が立ったのである。天に二日なしという千古の鉄則はここにやぶれた。

そのあとまあいろいろいつものごたごたがあった後、ついに劉備玄徳も鬼籍に入る(前から好きでなかったが10巻の玄徳はもう全然応援する気になれなかったので死んでも何にも感じなかった)。
曹操も玄徳もいなくなったが魏呉蜀はある。だから『三国志』は終わらない。

後半、孔明が南蛮に勢力を拡大せんと戦いをするのだけど、このときの南蛮国の王孟獲と孔明の攻防が面白かった。孟獲は何度も生け捕りにされて孔明の前に引き出されてあわや首を切られんとするんだけど毎回わあわあ言って放してもらう。3回目くらいまでは「仏の顔も三度っていうし」と思って読んでいたけど4度目5度目となると孟獲があんまりにも変わらないのでなんだかなあと。でも続けて読んでいくと…。孔明は偉いね。
南蛮の戦いでは肌の色の違う民族が出てきたり、いろんな毒のわく不思議な泉が出てきたり、それを直してしまうスゴイひとが出てきたりと面白かった。